大阪新四十八願所阿弥陀巡礼 公式ホームページ|江戸中期の阿弥陀仏の四十八願にちなんだ巡礼を、このたびの法然上人八百年遠忌を記念して再興いたしました。

四十八願所めぐりの成立

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四十八願所めぐりの成立

(文:山本博子氏)

 浄土宗の巡礼といえば、宝暦12年(1762)に始まり、現在まで巡拝が続いている「法然上人二十五霊場」がよく知られています。しかし、それ以前から巡礼されていた「阿弥陀四十八願所」のことはあまり知られておりません。「阿弥陀四十八願所」とは、浄土宗の教えのよりどころである「浄土三部経」の中の『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の四十八の本願数を巡拝の札所[ふだしょ]寺院数とし、それらの寺院に祀る阿弥陀仏を巡拝対象とする巡礼のことです。


 この「阿弥陀四十八願所」の巡礼は京都の地に始まります。要阿の『洛陽四十八願所巡拝記』(専阿乗誓『弥陀霊像西方四十八願所縁起』[天保2年<1831>序]所収)によりますと、慶長18年(1613)洛西善峰[よしみね]の源光が誓願寺の本尊阿弥陀仏の霊告を得て、洛中の48ヶ所の阿弥陀仏を巡拝し、その後、浄清が阿弥陀仏の本願文[ほんがんもん]を詠じた和歌を記した額を寺々に掛けたとされます。また『山城国中浄家[じょうけ]寺鑑』(寛文8年[1668]刊)には、第1願から第48願までの本願文を一枚ずつ紙に書き、浄土宗42ヶ寺と天台・真言宗6ヶ寺に札を納め巡拝したとも記されています。更に『洛陽四十八願所道しるべ』(天保14年[1843]刊)によると、終日歩行のあいだ雑談を止[や]めて専ら念仏すれば、三万・六万・十万もの念仏に至るので、この巡礼によって多くの念仏を称えて極楽浄土への往生を願うことが巡礼の目的であるとしています。


 さて、このようにして京都に始まった「阿弥陀四十八願所」の巡礼が、大坂の地に派生します。大坂には観音三十三所・六地蔵・地蔵四十八ヶ所などの巡礼はありましたが、浄土宗寺院だけをめぐる巡礼は設けられておりませんでした。そこで元文5年(1740)生玉寺町の九応寺淳誉が勧進主となって、『大坂四十八箇寺阿弥陀巡礼記』(以下『巡礼記』と略)を出版し、大坂に「阿弥陀四十八願所」を創設することとなりました。


 『巡礼記』には、札所寺院ごとに、番付・所在地・寺名、本尊阿弥陀仏像の作者名・大きさ、札所寺院に当てられた本願の願名と、生玉寺町の大安寺寂誉が願文[がんもん]の内容を詠じた和歌が札所の御詠歌として記されています。札所は天満西寺町の法住寺を第1番とし、天満東寺町、小橋寺町、八丁目東寺町、八丁目中寺町、八丁目寺町、西中寺町、生玉中寺町、生玉寺町、天王寺西、西寺町などの寺々(大坂の中心に位置する寺町の寺々)をめぐり、道頓堀の法善寺を第48番としておりますが、最後に「四十八ヶ所願成就供養の寺」として西寺町の万福寺を加えています。全行程は125丁(約14キロ)ですので、一日で巡拝を終えることができるようになっていたようです。


 『巡礼記』によると、阿弥陀仏の48のそれぞれの本願は、すべての人びとを利益するためであり、その救いの利益によりすべての人々が極楽浄土に生まれることは明らかであるから、巡礼の目的は、阿弥陀仏の本願の心を詠じた御詠歌を唱えて、共に極楽浄土の同じ蓮の花の上に生まれること(一蓮托生)を願うことであるとされます。


 札所でのお参りの作法は、御詠歌を唱えた後に、源信『往生要集』の「極重悪人無他方便、唯唱弥陀得生極楽[ごくじゅうあくにんむたほうべん、ゆいしょうみだとくしょうごくらく]」(極重の悪人は他には救われる道はないが、その悪人もただただ阿弥陀仏の名号を唱えたならば必ず極楽に往生できる)の文と「阿弥陀如来報恩謝徳のおんため」の文を唱えて、本尊の阿弥陀仏に往生を祈願して念仏するとしています。また、『巡礼記』によると、巡拝者が各札所へ納める札が、九応寺から49枚板行されていたとのことです。ただし、この札は現存しないので、札に記された内容はわかりません。


 その後、大坂の「阿弥陀四十八願所」は、『浪花寺社巡』(延享4年[1747]刊)や『大坂寺社順拝記』(明和9年[1772]序)などの巡礼案内書にも取り上げられ、多くの人びとに知られるようになってゆきますが、その巡拝が盛んになる一因は、「蓮華講」という巡拝の講組織の活動によるところが大きかったようです。現在も札所寺院の中には、門前などに蓮華講員が建立した標石が残っており、それには「阿弥陀(蓮華の模様)四十八願所」などと刻まれています。この巡礼の巡拝日は、『さんけい見物遊山命せんだく』(刊年不詳)を見ると、毎月15日としていますが、『阿弥陀様元祖様一同に廻る図』(刊年不詳)では、大坂の法然上人二十五霊場の巡拝である「元祖めぐり」と同日(25日)にめぐる経路が示されており、必ずしも15日でなく、25日にも巡拝が行われていたようです。


 このように「阿弥陀四十八願所」は、江戸時代中・後期の京都や大坂の人びとに親しまれていた巡礼の一つであったといえましょう。

江戸時代の阿弥陀巡礼の木札、於・光善寺旧阿弥陀巡礼の石柱、於・源聖寺

左:江戸時代の阿弥陀巡礼の木札(於・光善寺) 右:旧阿弥陀巡礼の石柱(於・源聖寺)

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