浄土宗の教えと四十八願
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浄土宗の教えと四十八願
浄土宗の教え
仏教の目標は悟って(=解脱して)仏と成ることです。仏と成れば、苦しみの世界(=六道)を輪廻することがなくなり、もはや一切の苦しみから完全にそして永遠に自由となります。
ですから当然、その悟りの境地というのは、実に心地よく晴々とした素晴らしい境地なのですが、ただ、その悟りの境地に至るのは、そう簡単ではありません。多くの戒律を完璧に守り、完全な精神統一ができ、そして仏教の教えが頭だけではなく身心をもって理解・実践できてこそ、悟りの境地に至れるというわけです。そうすると、私たちのような普通の者にとって、悟ることは、相当に困難なものといえます。確かにお釈迦様のような非常に優れた指導者が身近におられれば比較的容易ですが、常にお釈迦様のような方が側におられるとは限りません。
そのような中にあって、私たちでも悟りに至ることができる教えとしてクローズアップされたのが、「浄土教」の教えでした。「浄土宗」はまさにこの浄土教の教えに基づいております。私たちが自力[じりき]で悟ることは困難だけれども、阿弥陀仏のお力(=他力[たりき])を頂いて、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し(=徃[ゆ]き生まれ)、その「修行するのに『極』めて『楽』」な極楽浄土で修行して悟りを目指すのなら、私たちでも悟ることができるであろうと説くのが浄土教です。つまり、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろうというわけです。
では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者(=凡夫[ぼんぶ])を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。多くの仏の中で、特に阿弥陀仏に依るのは、まさに阿弥陀仏が私たちのような凡夫を救おうとされているからといえます。今も極楽浄土に居られて説法しておられるだけでなく、どこにいる人にも届く救いの光明を常に発し続けておられます。ですから、私たちのところにもその救いの光は確実に届いているのです。ただしそれに気づき、それを受け容れようとする気持ちがなければ、その光は届いていないも同然となってしまいます。法然上人の和歌として最も有名な「月かげ(=月の光)のいたらぬ里はなけれども、眺むる人の心にぞすむ」の趣旨の通りです。
では、どうすればその救いの光は届くかと申しますと、法然上人は一心に阿弥陀仏を信じて、専らに(=一向に)お念仏を修すべきと示されました。他の行をまじえずひたすら念仏すべきというわけです。これを「専修[せんじゅ]念仏」の教え、「一向専修」の教えといいます。
さて、その阿弥陀仏が悟りを開いて仏と成られた時にできたのが極楽浄土です。浄土とは「仏の世界、仏の国土」のことで、仏の数だけあるとされますが、その中で阿弥陀仏の浄土のことを「極楽」(別名「安養国[あんにょうこく]「安楽国[あんらっこく])と申します。ここより西方に十万億の浄土を過ぎたところにあるとされます。非常に過ごしやすいところですので、いわゆるパラダイスのような世界ではありますものの、基本的にはあくまで修行の場です。修行の邪魔になるようなものは一切なく、逆に修行を増進させる要素が多く見られます。しかも往生した者は不退転の境地(=修行段階が後戻りしない境地)にまで達していますので、怠けることがありません。ですから、私たちのような者でも容易に修行が進み、悟りを得ることができるというわけです。
四十八願
次に、「四十八願所阿弥陀巡礼」の「四十八」の根拠となった「四十八願[しじゅうはちがん]」が、どのようにして成立したのか、その内容はどのようなものかについてお話します。
阿弥陀仏はもともとある国の国王でした。ところが、人々を救済するために出家して「法蔵」と名乗り、そのとき既に仏と成っておられた世自在王仏[せじざいおうぶつ]に、自身の浄土を建てて人々を救済したい旨を告げられたのです。すると世自在王仏は神通力によって二百一十億[にひゃくいちじゅうおく]の浄土をお示しになりましたので、そこで法蔵はそれらの浄土を参考に、自身の建てる浄土をどのような浄土にすればよいか、五劫[ごごう](「劫」とは非常に長い時間の単位)のあいだ思惟され、ついにどのような浄土を建立するかを、48項目の誓願(誓い)の形で示されたのです。これが「四十八願」です。そして、その四十八願を成就するために、引き続き「兆載永劫[ちょうさいようごう]」とうい非常に長いあいだ修行をされ、ついに十劫[じっこう]の昔に阿弥陀仏に成られました。そのとき極楽浄土も建立されたというわけです。
ですので、四十八願がなければ、阿弥陀仏も極楽もありえないのですが、では四十八願とはどのようなものなのか、それを次にお話ししましょう。そもそも「誓願」とは「自身が悟りに至ろう、そして人々を救済しよう」とする『願』いであり『誓』いのことを指します。誓願にはすべての仏・菩薩に共通の願である「総願」(実質的には「四弘誓願」[しぐせいがん])と、仏・菩薩ごとに個別の願である「別願」がありますが、四十八願はまさに阿弥陀仏の別願です。
四十八願はその内容からして、三つに大別されます。まず一つは阿弥陀仏自身のことについて誓った願で、第12願と第13願がこれに当たり、「無量光仏」「無量寿仏」に成ることを誓っておられます。阿弥陀仏は自身の光明によって人々を救い取られるのですが、もし光明の届かないところがあれば、そこにいる人は救えないことになってしまいます。そこでどこにいる人も救おうとして「無量の光明を持つ仏」即ち「無量光仏」になろうとされたのです。一方、寿命に限りがあれば、自身がいなくなった後の人々は救われないことになります。そこで永遠に人々を救い続けようとして、「無量の寿命を持つ仏」即ち「無量寿仏」になろうとされたのでした。
二つ目は往生するために必要な行(往生行)について誓った願で、第18願がそれです。ここでは「少なくとも十回の念仏をしたら必ず往生できる」ことを誓っておられます。この第18願には念仏以外の行が説かれていないことから、法然上人は阿弥陀仏が往生行として勧められたのは念仏だけだと受け取られ、専修念仏の根拠とされました。ですので、浄土宗にとってこの第18願は特に大切な願として、「王本願」と申したり致します。なお、願では「少なくとも十念」とありますが、法然上人はここには一回から一生涯の念仏まで、すべて含まれていると説いておられます。(第19願・第20願も往生行を説く願とされることもありますが、浄土宗では第18願だけと受け取ります。)
では、残りの願は何を説いているかというと、往生した人にどのような良いこと(もちろん仏教的に)があるのかを述べています。例えば、第5願から第10願は六神通[ろくじんづう]という超能力のようなものが得られることを誓っていますが、この能力を使って、むしろこの世が無常かつ苦しみの世であることをより深く理解します。そうすると悟りの向けての修行も増進することになります。(なお、普通の者がこのような能力を持ったなら悪用してしまいそうですが、極楽は悪事を働こうという思いさえ抱くことさえない世界となっています。)この他、第11願と第22願では往生したら必ず覚りに至れること、第35願では女性も必ず往生できることなどが誓われています。
ところで、この四十八願は「~するぞ」という形ではなく、「私(=法蔵)が仏に成ったとき、~が実現されていなければ、私は仏に成りません」という形で誓願がなされます。阿弥陀仏はそのように誓って、しかも現在すでに阿弥陀仏という仏に成っておられるわけですから、その誓いはすべて成就していることになります。よって、第18願を例に取るなら、念仏すれば確実に往生できるということになるわけです。
もう一点、誓願について述べておくことがあります。「誓願」は「本願」とも言われるのですが、阿弥陀仏は四十八願という誓願(本願)を成就したことによって、世を超越した素晴らしい力を得られることとなりました。この力のことを「誓願(本願)を成就したことによって得た力」ということで、「誓願力[せいがんりき]」「本願力[ほんがんりき]」と申します。また、この力は私たちと別の者(=他の者)である阿弥陀仏の力ですので、「他力[たりき]」とも呼ばれます。私たちは阿弥陀仏を信じて念仏すれば、臨終の際に阿弥陀仏の来迎[らいこう](=お迎え)を頂き、阿弥陀仏の「誓願力」=「他力」によって、極楽に往生できるということになります。
なお、願名は『浄土宗聖典』第一巻に準拠しています。また「四十八願所」の各寺院に配置された和歌は、この四十八願の内容を歌に詠んだものですが、願の内容をほぼそのまま歌にしたものもあれば、かなり願の内容から逸[そ]れている場合もあります。その点、御了承下さい。
(安達俊英 記)